飽き性エターナらーが創作を継続するために&今更3月の抱負

 10月、漫画を描いた。10Pにも満たないコピー本を印刷した。そして飽きた。

 

11月と12月、アルバムを作った。1日1曲ペースで大量に作曲し、全8曲のアルバムを販売するに至った。そして飽きた。

 

 1月と2月、ゲームを作った。一度イチからやり直す巻き戻しを行いながらも何とか「クリアすることができるゲーム」を完成させた。そして飽きた。

 

このようにリアはそれなりの飽き性であり、いわば重度の「エターナらー」だ。「エターナる」というのは主にゲーム制作において「進捗を報告していながら結局未完」というような状況に陥ったことを意味するものだが、俺はまさしくこれだ。そして完成したゲームも「これを公開する気にはなれない」とお蔵入りにしてしまった(これ自体は作曲初心者時代もそうだったが)。

なぜ創作意欲が減退するのか。俺に限って言えば、それは「達成するから」だ。漫画を描いて本を作った。曲を作ってアルバムを出した。ゲームを作って完成させた。そこで創作は一通り完結する。満足するのだ。食後の満腹感と心地よい眠気に浸りながら茶碗にごはんをよそう者はいない。

ではそんな俺が創作を続けていくにはどうしたらいいのか。そもそもこんな飽き性がなぜ小2から13年間もの間絶えず創作活動を継続できたのか。振り返ってみよう。

ゼロ年代後半の小学生の創作の規模などたかが知れている。身内の間で公開して終わり。10年代中頃の中学時代、まだ中学生にTwitterは早かった(キッズYouTuberにはなっていたが)。身内の間で公開して終わり。10年代後半の高校時代、「大学生になったら本格的に活動する」と言っていた。身内の間かTwitterで適当につぶやいて終わり。そう、この13年間、俺の創作には「完成」が存在しなかったのである。

しかし、だ。映画はどうなる? 「青春黙示録カズキ」を筆頭としたB級映画群はれっきとした自主制作映画作品だ。放課後に教室を貸し切って先生立ち合いのもと生徒に見てもらって、それを完成していないなどとは言わせない。

考えられる要因は10月の文化祭→3月の終業式周辺とスパンがかなり空いていることと、制作期間が1か月程度で飽きないうちにささっと作っていること。そして何より、役者という他人が関与すること。刺激には困らない。これだ。個人創作に個人ゆえの限界があるとすれば、それは「何をやっても返ってくる答えが俺であることに飽きる」という点だ。神絵師がなぜ「もっと上手くなりたい」と研鑽を積むのか。それは自分の絵に飽きているからだ!!(暴論)

かくして、個人創作を半年ずっと続けて飽きた俺には「他人の関与」がかなり足りないことを痛感させられた。この泥沼から脱却するために必要なものは何だ? 決まっている。「共作」だ。抽象化すれば「他人の時間を奪うこと」だ。「俺の人生半分やるからおまえの人生半分くれ!」「ほんとバカね、半分どころか全部あげるわよ」のあの流れだ。例えば「漫画原作をやって作画担当と共作するために、『俺はこういう漫画を描きたいです』と簡単な漫画を描いて作画さんを募集する」とか、「シンガーソングライターとして編曲依頼を出し、そのための曲作りをする」とか、「ノベルゲームを作るためにシナリオを作り、キャラの立ち絵を依頼する」とかが考えられるだろうか。そういう「自分一人では完結しない作品作り」というのが必要なステップに入ったのだ、たぶん

ということで3月は上記を頑張ります。あといろいろ遊んでインプットもします。この半年間ロクな給油なしで飛ばしてたんでさすがに限界です……。聖魔の光石も5時間/週くらいでポチポチやってます。でわでわ。

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